不協和音

ワイの読書記録

トラウマの表象と主体

トラウマの表象と主体 森茂起編

本文の外傷性記憶とその治療ー一つの方針 中井久夫

外傷的記憶の特性

1、静止的あるいはほぼ静止的映像で一般に異様に鮮明であるが、

2、その文脈(前後関係、時間的・空間的定位)が不明であり、

3、鮮明性と対照的に言語化が困難であり、

4、時間に抵抗して変造加工がなく(生涯を通じてほとんど変わらず)、

5、夢においても加工(置き換え、象徴化なく)されずそのまま出現し(通常の夢が睡眠のレム期に出現するのに対して外傷夢はノンレム期であるという研究がある)、

6、反復出現し、

7、感覚性が強い。状況の記述や解釈を伴う場合は事後的、特に周囲、写真、日記、新聞記事などの外的示唆によることが多い。

8、視覚映像が多いが、1995年1月の払暁震災のように振動感覚の場合もあり、全感覚が記憶に参与しうる。聴覚の場合、微妙な鑑別が必要となる。

9、何年経っても何かのきっかけによって(よらないこともある)昨日のごとく再現され、かつしばしば当時の情動が鮮明に現れる。これを身的外傷と比較すれば、ヴァレリーのいうとおりになる。体の傷は癒えても心の傷は癒えないということである。これは脳の一つの特性であろう。

10、過去の追想につきものの「時間の霞」がかかるどころかしばしば原記憶よりも映像の鮮明化や随伴情動の増強が見られる。

それに対し成人型記憶を

1、サルトルがいうように眼前の映像に比して絶対的貧困性があり、特に細部が曖昧であり、

2、常に文脈の中にあって、したがって、生の連続隊の一部として意識され、

3、容易に言語化され、むしろ言語化されては「自己史」連続体の一部としてくりこまれ、その副次的な、一種の「挿絵」という第二義的地位に座を見いだし、

4、語りとして「自己史」の一部に統合された結果、生の進行とともにその意義、その内容の強調点が変化し、さらに一般に自分の都合のよいように、あるいは自己を美化するように変造・加工され、

5、特にこの変造・加工は(この場合はレム期においてみられる)夢に著しく、置き換えや象徴化されるのが普通である。このことは外傷夢の無加工性と対照的である。

6、主題や場面やストーリーが反復再現するが、全くの再現ではない。

7、感覚性の強さは言語化された記憶を経由したもので、一般に時間とともにうすらぎ、質的にも変動を起こして、ある特異な情動すなわち「なつかしさ」を伴う。否定的内容の事件に対しても「けっきょく済んでほっとした」「よくやってこれたものだ」という肯定的結論の情動を伴うがこれもまた時間とともに現場感と切実さを失ってゆく。

8、当初は個別感覚に基礎を置くが、次第に一般感覚的、さらに雰囲気的なものが前面にでてくる。

9、昨日のごとく再現されることが絶対にないとはいわないが、それはきわめて稀であり、了解しうる状況においてである。たとえば若い日の恋人との予期しない再会。しかし、その場合でも特異な情動「ほろにがい甘さ」が加わっており、細部はしばしば状況に都合のよいように変造されている。

10、大きな特徴は、先に挙げた「連続性」とともに「時間の霞」である。事件との時間的距離の感覚があり、それが記憶をひとつの全体の中におさめている。時間性が成人型記憶の全体を覆っていて、外傷性記憶の時間停止と対照的である。

外傷性記憶はそこだけ時間が停止し、記憶の総体の中に収まらず「腐骨化」がなされている。

成人の記憶は、現在との(主観的)時間的距離のよって一体性を帯び、統合されている。

だとするなら、過去の自分の行動に対する後悔であったりが同じだけの重さを持って不意に甦ってくる自分の状態って何なんだろうな?と思う

肯定的情動を伴うのが「正しい」精神状態なら、今の私の精神状態はひどく「不健全」なんだろうなと思ったりもする。記憶に対する意見の相違はさておき、現在からみた過去の自己像は、それが現在であった時の自己像ではありえない。つねに現在との関連によって、その重要性も文脈も内容さえも変化をこうむっているという点については同意する。

外傷体験はそれ自体が屈辱的体験であり、恥の意識を伴い、抑鬱感情にもつながり、心気症にもつながる。また、外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことである。

という箇所はしばしば考えることで、しかしながら、時に記憶の間隙や喪失を伴いながらも連続性を失わない「自己」とは何なのだろうか?と思わずにはいられない。

映画における記憶とトラウマの表象 加藤幹郎

記憶の喚起は直接的で明確なイコンとしての類似よりも、むしろどこがどう似ているとはすぐさま表現できないような、間接的な類似の方が効果的なこともある。

自己の起源の記憶がある者が、どうしてその不可能な期限を唯一遡及的に起源たらしめる死をみずから選びとる必要があったのでしょうか。むしろ自死する人間は自分の人生を根拠づけるであろう起源の喪失感にこそ悩んでいるのではないでしょうか。

ひとは映画の観客であるかぎり、いかなる心的外傷を負う心配もなく、他者のトラウマをみずからの欲望の拡大充足の延長線上にみることができる。

一般に映画の表象は、それが荒唐無稽なフィクションであろうと峻厳たるノンフィクションであろうと、「歴史のなかの人間」をえがくことに汲々とし、かつそれを当然のこととして受け容れ、そうした前提にほとんど何の疑いもいれてきませんでした。

(中略)人間は歴史の教訓からは何も学んでこなかったという使い古された評言がありますが、それは歴史が「歴史のなかの人間」を記述するかぎり、人間にとって教訓となることはできないという意味です。もし歴史が「歴史のなかの人間」を記述することに終始するのではなく、「人間のなかの歴史」を精査することができれば、そのときはじめて歴史の教訓は人間のものとなることができるだろうというのが、ここでの仮説です。

「歴史のなかの人間」たりうるとき、そのときの歴史とはあくまでも遡及的、事後的な時間構成であり、その意味で第三者にとって代替可能かつ理解可能な時間ではあっても、ほかならぬ当事者にとって生きられた紛れもない「現実」の時間の再現ではありません。このことは物語小説の一般的な人称時制が三人称過去形を取ることを思い起こせば、理解しやすいかもしれません。すべてが終わった時点(過去形)から、そして自己を離れたポジション(三人称)からでないと、まがりなりにも客観的たることを要請される歴史=物語を記述することは不可能です。いまだ「終わり」をもたない歴史=物語というものはありえませんし、自己が自己について首尾一貫した歴史=物語を語ることは、いまだ自己が首と尾をもちえないまま蠕動している以上、できない相談です。歴史と物語は共通して「はじまり」と「終わり」があり、認識的切断によって時間の流れに恣意的な切れ目がいれられ、そのことによってはじめて「過去の出来事」を「終わり」という「語りの現在」にむかって目的論的に体系化し記述することができます。(中略)終息していない歴史=物語を語ることは、過去が現在を侵食している「いま」を記述することであり、そのとき歴史は現在と過去を峻別できない「人間のなかの歴史」として立ち現れてくることでしょう。

つまり客観的知ではなく、当事者にのみ共有される、「共有しがたい不可解な知」において歴史ははじめて物語であることをやめて真実の現実としての意味を持ちはじめるとある。VRの登場により、娯楽がより「現実味」を帯びていくなかで、どのように「共有しがたい不可解な知」を提供できるかが、鍵となっていくのではと思うなどした。

物語とトラウマ 久松睦典

 フロイトは「事後性」という観点から、ある出来事がトラウマとなるのは後になってその外傷的な意味が発見されるからだと論じた。トラウマと言う原因があってそれが現在の症状を生み出したという因果を逆にした発想である。

事後性とは、現在の語りが「過去」や聴き手との関係の中でいかに生成していくかというプロセスと関連している。もちろん、現在の視点によって恣意的に過去が変化するわけではない。過去は語りの主体にとってどうしようもない他者として立ち現れてくる。過去、あるいは記憶という問題は、物語性と本質的に緊張をはらんだ関係をもっている。だからこそそれは、心理療法における物語の生成の動きを見るために重要な視点を与えてくれると思われる。

 トラウマのもつ過去の直接的な現在化という性質と、過去は常に現在から解釈された物語論の視点はひとつのパラドクスをはらんでいる。トラウマの直解的(literal)な性質は、その理論においてもトラウマを文字通りに扱うことにつながり、それが事実とファンタジー、外界と内界、加害者と被害者といった分裂をもたらしている。

(中略)トラウマは人間的な意味の領域に亀裂を生み、根源的な無根拠さ、無意味さをあきらかにするがゆえに、かえってその空白の周りに意味を強く引き寄せる。

非物語的なトラウマの記憶の物語への変容という課題は、トラウマに関する心理療法の多くで強調されている。しかし物語化への動きは、無意味なものから意味あるものという一方通行的なものではなく、実際には象徴の彼岸としての「モノ」の領域と「語り」の領域の相互作用と、それらの中間領域の形成として捉えることができるのではないだろうか。

物語はたんに語り手や登場人物についての客観的な知識をもたらすのではなく、「主観を通じて」体験されるような性質をもっている。物語が人生に意味を与え、体験を形づくるのは、それが出来事を描写する外向的な行動であると同時に、自己反省と自己理解を可能にする内省的な行為でもあるからだ。物語は、ある個人の置かれている状況に意味を与え、文脈を明かにし、展望をもたらす。

ユングフロイトであったり心理療法についての知識が乏しいので気になった部分の抜粋だけ