不協和音

ワイの読書記録

依存と自立の精神構造

依存と自立の精神構ー「清明心」と「型」の深層心理   長山恵一

しがみつき依存について

しがみつきでは外面的な要求がいくら叶えられても、患者の内面には本質的な満足感が生まれず、要求が際限もなく繰り返される。相手が要求に応じないとき、患者は恨みのこもった攻撃性をあらわにする。しがみつきとその種の攻撃性は表裏一体を成し、相手を依存の泥沼へと引きずり込もうとする。

その対象は恋人であったり母親などのごく近しい人に向けられ、相手をまさに振り回し、思い通りに動かそうとする。

しがみつきにみられる特徴として

この人さえいればなんとかなる。なんとかしてくれるだろう。といった幻想的な思い込みが認められること

バリントによると、「対象の過大評価」と呼ぶ

第二の特徴として、しがみつきには相手に対する不信や憎悪が内在しており、状況によってそれがいつでも恨みのこもった攻撃性に転化することが挙げられる。

「不信」と「しがみつき」「振り回し」の不可分な関係は病的依存のアンビバレンツでもあり、土居によると、「ナルチシズム的甘え」が必然的に恨みや憎しみを伴った愛憎一如の現象だと指摘し、そこでは依頼心のみ強くて信頼心に乏しいとも述べている。

第三の特徴として、患者はしがみつく相手に異様に敏感になる点が挙げられる。しがみついたり、恨んで攻撃する患者は一見相手のことを何も考えずにそうしているように見える。しかし事実はまったく逆で、相手の心の動きを敏感に察知したうえでしがみついている。

バリントはこれを、「テレパシー」あるいは「ゆゆしい才能」と表現し、土居は「甘え理論」で、この種の敏感さを日本語の「気がね」で表現しており、それが「甘えたい心=依頼心」の抑圧で生じると説明しているが、筆者はバリントのいう病的依存に付随した現象だと解している。

第四の特徴として、相手から何かしてもらっても満足できず、かえって前より欲求が強くなるという悪循環が挙げられる。

以上のような奇妙な悪循環や対人過敏性が病的依存の特徴だが、その底には「自分がない」とでもいうような主体の心的「基盤」の脆弱さが潜んでいる。

基盤とは、足場とは

我々があるものを自分の「基盤」とみなすとき、それが不動で破壊不能であることが前提である。地上何メートルかの高さにいても、主観的体験としては私たちは高さを感じずに活動できるのは、思い切り床を踏みつけても床は壊れないというアプリオリな信頼によるものである。この種の信頼や安定感は言葉で自覚されるものというより、身体感覚に近い形で漠然と感じられ、我々の意識活動はその基盤に支えられることで具体的な方向へと向かうことができる。

しがみつきにおいては、患者は相手を意のままに動かそうとしつつ、同時に心のなかでは動揺しない基盤を求めている。もし相手が患者の要求に無抵抗に従い、振り回されれば、表面的な要求は叶えられるが患者が心の奥で求めている「基盤」という属性は逆に失われる。この結果、相手が要求に無抵抗に従えば従うほど、患者は内面の不足感を募らせるという奇妙なことが起きてくる。また、「動揺しない基盤」と「意のままに動くこと」が同時に成就されることはない。これが、依存の悪循環の産み出す源泉であるといえる。

しがみつき依存と罪悪感

精神分析における罪悪感における日本人の心性

西園によると「罪の意識」は大きく二つに類別することができ、

第一の罪意識はフロイトが明らかにした超自我不安にかかわる「フロイト型の罪意識」であり、この型の罪意識は父・母・子をめぐるエディプス・コンプレックスに由来し、超自我からの懲罰にかかわっている。第二の罪意識は「ナルチシズム型罪意識」あるいは「母親依存型の罪意識」であり、母子関係を軸とし、他者の保護に関連するナルチシズムにかかわり、自己の存在の確証をめぐっての罪意識となっている。

クラインによると、「母親依存型の罪意識」は「抑鬱的態勢」において、幼児は「良い母」と「悪い母」が同じ一つの全体的対象であることを認知するようになり、自分が愛し全面的に依存している同じその対象である母に破壊的な衝動を向けるという両価性を経験する。躁的でない償いは防衛とは正反対な性質をもち、自我の成長や現実適応に大切な働きをし、母子分離や全体的対象認知を促す意味合いをもつ。