不協和音

ワイの読書記録

共依存とアディクション

 共依存アディクション 心理・家族・社会 清水新二編

共依存アノニマスグループからの引用

“自分が誰であるかと考えるとき,あなたに好かれ認めてもらえていると,わたしはとてもいい気分でいられます。”

“わたしのこころはあなたを喜ばせよう,あなたを守ってあげたいと,そしてあなたをわたしの思うとおりにしたいと夢中なの。”

“あの人はこどもみたい。あなたの装いから振る舞いまで,すべてわたしの言うとおりにしたらいいのに。”

“自分がどう感じるかなんてどうでもいいの。気になるのはあなたがどう感じるかだわ。”

“あの人の怒りや拒絶を恐れるあまり,わたしのいうことやることみんなあの人次第になっちゃうんです。”

“あの人になにかをあげたり贈ったりすると,とても安心感が得られるの。”

“あなたにかかりきりで,まわりの人との縁が薄くなっちゃったわ。”

共依存とは自分よりも他者の感情や欲求により多くの注意を払って、自分自身の価値を他者との親密さに求め、結果的に自分自身を圧殺し喪失してしまうことである。」

 家族と共依存の章において特に印象的だったところを抜粋した。

自他境界の曖昧さと言ってもいいのだろうか、献身的というよりは、やはり独りよがりの面が強く出ているように感じる。

 アルコール依存症が1940年代から50年代前半にかけて個人に原因を求めたり、夫婦関係における妻のパーソナリティの病理性、不全性に帰せられたりしていくうちに1950年代後半から60年代になると「妻のおかしさ」をめぐって異論が提起され、ストレス説として展開されることとなる。ストレス説は、また妻のパーソナリティ病理論から夫婦関係あるいは家族関係の相互作用論へと研究の軸を移行していった。その後の家族相互作用論の展開は、夫が悪い、妻が悪いといったレベルから夫が悪ければ妻も悪く、妻が悪いのであれば夫も悪い、また逆に夫がよいのは妻もよいからだといった具合に、次第に相互の循環的関係に関心が向けられていく。

機能不全への適応過程:自己の圧殺と喪失(アルコール依存症

メンデンホールによると依存症者のいる家族における相互作用の特徴として、非一貫性があり、これらの結果はまた自身の感情でものを体験したり自己を意識したりすることに対する圧殺を導く。

共依存=自己喪失へのプロセス

ホイットフィールドは共依存が芽生え発達していくプロセスには以下のような特徴が観察されるとして、これを発生機序順に並べ「共依存の生成」と呼んでいる。

1 精神内界における自己のための手がかり(観察・感情・反応等)の無効化と抑圧

2 自分の欲求を大切にしない

3 本当の自己を圧殺し始める

4 共依存的(誤った)自己を築き始める

5 家族の秘密やその他の秘密があることに対する否認

6 情緒的苦痛に対する我慢強さと不感症の増大

7 なにかが損なわれることに対する悲哀感の喪失

8 成長(精神的・情緒的・霊的)の阻害

9 苦痛を和らげたり真の自己をかいま見るための強迫的行動

10 恥の感覚の増長と自尊心の喪失

11 直面している状況掌握に関する喪失感と、それ故のさらなる状況掌握への欲求

12 苦痛のすりかえならびに投射

13 ストレス関連疾患の発生

14 増勢する強迫性

15 悪化の増長(極端な感情の揺れ動き・他者との親密な関係維持困難・慢性的不幸感・アルコール依存症共依存その他の状況からの回復に対する抵抗)

 以下はホイットフィールドに従ったこのプロセスの概略説明である。

 心に傷を受けたり喪失体験をしたり、にもかかわらず誰もそれを理解し支えてくれなければ、人はこれを自分の中にしまいこむしかない。これが心理的外傷、トラウマである。こうして共依存の生成は事態を観察することや、何かに対しての感情や反応などの内的世界を抑圧することから始まる。トラウマに触発されて自分の内部から発せられる本当の自分のについてのヒントや手がかりを、両親や他人のみならず自らまでもが黙殺し無効化してしまい、ついには本当の自分を押し殺し始めてしまうのである。

 次いでホイットフィールドは、「周囲の人の欲求にあわせすぎると、自分自身の欲求をないがしろにし始め、そうこうしているうちに本当の自分つまり自らの“内なるこども(the child within)” を圧殺してしまうのである。

 こうした初期の過程では往々家族の秘密を否認し始めるが、この否認には心の痛みを伴うために私たちはこれを無意識の世界に閉じこめるのだという。にもかかわらず我々に心がある以上、この苦痛を感じざるを得ず、これに耐えるため私たちは苦痛に鈍感になったり悲哀感情を捨てるようになる。生存していくためには、このようにして誤った共依存的な自己を築かざるをえず、このことは私たちの精神的、情緒的、霊的な成長を阻害することにもつながる。

しかし物語はこれで終わらない。共依存的自己を築いたにもかかわらず、心の痛みは治まるわけもなく、それを和らげたり本当の自分を手探るため今度は場当たり的で応急措置のような自己探索が強迫的行動のような形をとって繰り返されるという。この強迫的行動が自他に対してネガティブなものであれば、私たちの内部では恥の感覚が増長し自尊感情は低下してゆく。この時期になると、私たちからは次第に事態の把握感覚が失われるため、なおさら事態をコントロールしようと努めるようになる。しかしそれもついには矢尽き刃折れ、欺かれ傷ついて終わる。こうなると自らの苦痛を他者を通じて投射せざるをえなくなり、自分の内部にではなくもっぱら自分以外の他者の欲求や選好に関心を向けていく。この時期になるとストレス関連の身体的不調や心身症状や疾病が見られたりする。こうなると共依存の程度は一層進行して、極端な気分変調、親密な他者との人間関係上の齟齬、慢性的な不幸感が生じたり、問題からの回復に否定的、拒絶的になったりの結果をもたらす。

またホイットフィールドは共依存を「自己喪失の病気」であり、「じぶんを意味づけ満たしてくれるものが自分以外のどこか周囲にあると信じ求め続ける嗜癖的な傾向である」とも述べている。

共依存問題の決定的な拡大展開

シェフは物質嗜癖(アルコール・ドラッグ・ニコチン・カフェイン・食物等)とプロセス嗜癖(お金を貯めること・ギャンブル・セックス・仕事・宗教・心配等)からなる第二次的嗜癖の根底にあってこれら各種に共通の特徴を与え結びつけるものとして、第一次嗜癖とも呼ばれる人間関係嗜癖、すなわり共依存が置かれている、としている。

 この嗜癖システムに生きている限り、私たちは共依存的にならざるをえず、自己責任とコントロールを混同させられ、自らをコントロールできないならば他者をコントロールしようとするコントロール幻想を身に付けされられる。

シェフのいう共依存の特徴としては「自分を価値の低いものと感じ、自分が他者にとってなくてはならない者であろうと」努力し、自己犠牲を好む「キリスト教の殉教者のような苦難者」であり、他者を優先する「従者」であり、自らを害することに無頓着」で「消化性潰瘍や高血圧、腸炎、背痛やリューマチ性関節炎を患う者が多く、癌に罹る率も高率」で、その子どもたちは「アレルギーや皮膚炎、喘息、夜尿症」「無気力」「事故などの自己破壊蛍光」があるという。

 そしてイネーブリングに関連して次のようにも表現しており、

 「共依存者には世話を焼くことと気遣うことの違いが分かっておらず、長い間他人の世話を焼いてきたが為に(そして相手の依存を強めさせておいて)、彼らは怒りっぽく、恨みがましくなり、疲れ果てている。その結果、今まで世話を焼いていた相手を無視するようになりますが、今度はその相手からもっと自分を世話するように要求されることで、共依存者はその相手を黙らせるためだけに面倒をみる役に戻っていく」

 どんなに自己犠牲を払っても、「自分が他者にとってなくてはならない者」になろうと努めるのは、アルコール依存症の妻にだけ認められることではなく、現代の嗜癖システムに生きている限り、それは私たちの問題でもあるというのがシェフの一貫した骨太な主張である。一方で、具体的な個人レベルであろうと、全体的な嗜癖システムレベルであろうと、嗜癖からの回復はまず、他者へのケアや関心を自らの嗜癖=強迫的な病気の問題として認め、その問題をコントロールすることには無力であること、つまりコントロール幻想の放棄を受け入れ、この病的状態から脱出し新たな自分を生きねばならないとしている。

共依存論議の新局面:フェミニズムからの共依存論批判

ホワイトとエプストンのによるとシェフに代表されるような立場と見解は、いつの間にか共依存論議の世界における、いわば支配的物語(dominant story:我々の経験を言語化し秩序立てるにあたって、通常我々を導き、ある特定の方に当てはめようとする社会的通念のような一般的物語)とある。