不協和音

ワイの読書記録

共依存とアディクション

 共依存アディクション 心理・家族・社会 清水新二編

共依存アノニマスグループからの引用

“自分が誰であるかと考えるとき,あなたに好かれ認めてもらえていると,わたしはとてもいい気分でいられます。”

“わたしのこころはあなたを喜ばせよう,あなたを守ってあげたいと,そしてあなたをわたしの思うとおりにしたいと夢中なの。”

“あの人はこどもみたい。あなたの装いから振る舞いまで,すべてわたしの言うとおりにしたらいいのに。”

“自分がどう感じるかなんてどうでもいいの。気になるのはあなたがどう感じるかだわ。”

“あの人の怒りや拒絶を恐れるあまり,わたしのいうことやることみんなあの人次第になっちゃうんです。”

“あの人になにかをあげたり贈ったりすると,とても安心感が得られるの。”

“あなたにかかりきりで,まわりの人との縁が薄くなっちゃったわ。”

共依存とは自分よりも他者の感情や欲求により多くの注意を払って、自分自身の価値を他者との親密さに求め、結果的に自分自身を圧殺し喪失してしまうことである。」

 家族と共依存の章において特に印象的だったところを抜粋した。

自他境界の曖昧さと言ってもいいのだろうか、献身的というよりは、やはり独りよがりの面が強く出ているように感じる。

 アルコール依存症が1940年代から50年代前半にかけて個人に原因を求めたり、夫婦関係における妻のパーソナリティの病理性、不全性に帰せられたりしていくうちに1950年代後半から60年代になると「妻のおかしさ」をめぐって異論が提起され、ストレス説として展開されることとなる。ストレス説は、また妻のパーソナリティ病理論から夫婦関係あるいは家族関係の相互作用論へと研究の軸を移行していった。その後の家族相互作用論の展開は、夫が悪い、妻が悪いといったレベルから夫が悪ければ妻も悪く、妻が悪いのであれば夫も悪い、また逆に夫がよいのは妻もよいからだといった具合に、次第に相互の循環的関係に関心が向けられていく。

機能不全への適応過程:自己の圧殺と喪失(アルコール依存症

メンデンホールによると依存症者のいる家族における相互作用の特徴として、非一貫性があり、これらの結果はまた自身の感情でものを体験したり自己を意識したりすることに対する圧殺を導く。

共依存=自己喪失へのプロセス

ホイットフィールドは共依存が芽生え発達していくプロセスには以下のような特徴が観察されるとして、これを発生機序順に並べ「共依存の生成」と呼んでいる。

1 精神内界における自己のための手がかり(観察・感情・反応等)の無効化と抑圧

2 自分の欲求を大切にしない

3 本当の自己を圧殺し始める

4 共依存的(誤った)自己を築き始める

5 家族の秘密やその他の秘密があることに対する否認

6 情緒的苦痛に対する我慢強さと不感症の増大

7 なにかが損なわれることに対する悲哀感の喪失

8 成長(精神的・情緒的・霊的)の阻害

9 苦痛を和らげたり真の自己をかいま見るための強迫的行動

10 恥の感覚の増長と自尊心の喪失

11 直面している状況掌握に関する喪失感と、それ故のさらなる状況掌握への欲求

12 苦痛のすりかえならびに投射

13 ストレス関連疾患の発生

14 増勢する強迫性

15 悪化の増長(極端な感情の揺れ動き・他者との親密な関係維持困難・慢性的不幸感・アルコール依存症共依存その他の状況からの回復に対する抵抗)

 以下はホイットフィールドに従ったこのプロセスの概略説明である。

 心に傷を受けたり喪失体験をしたり、にもかかわらず誰もそれを理解し支えてくれなければ、人はこれを自分の中にしまいこむしかない。これが心理的外傷、トラウマである。こうして共依存の生成は事態を観察することや、何かに対しての感情や反応などの内的世界を抑圧することから始まる。トラウマに触発されて自分の内部から発せられる本当の自分のについてのヒントや手がかりを、両親や他人のみならず自らまでもが黙殺し無効化してしまい、ついには本当の自分を押し殺し始めてしまうのである。

 次いでホイットフィールドは、「周囲の人の欲求にあわせすぎると、自分自身の欲求をないがしろにし始め、そうこうしているうちに本当の自分つまり自らの“内なるこども(the child within)” を圧殺してしまうのである。

 こうした初期の過程では往々家族の秘密を否認し始めるが、この否認には心の痛みを伴うために私たちはこれを無意識の世界に閉じこめるのだという。にもかかわらず我々に心がある以上、この苦痛を感じざるを得ず、これに耐えるため私たちは苦痛に鈍感になったり悲哀感情を捨てるようになる。生存していくためには、このようにして誤った共依存的な自己を築かざるをえず、このことは私たちの精神的、情緒的、霊的な成長を阻害することにもつながる。

しかし物語はこれで終わらない。共依存的自己を築いたにもかかわらず、心の痛みは治まるわけもなく、それを和らげたり本当の自分を手探るため今度は場当たり的で応急措置のような自己探索が強迫的行動のような形をとって繰り返されるという。この強迫的行動が自他に対してネガティブなものであれば、私たちの内部では恥の感覚が増長し自尊感情は低下してゆく。この時期になると、私たちからは次第に事態の把握感覚が失われるため、なおさら事態をコントロールしようと努めるようになる。しかしそれもついには矢尽き刃折れ、欺かれ傷ついて終わる。こうなると自らの苦痛を他者を通じて投射せざるをえなくなり、自分の内部にではなくもっぱら自分以外の他者の欲求や選好に関心を向けていく。この時期になるとストレス関連の身体的不調や心身症状や疾病が見られたりする。こうなると共依存の程度は一層進行して、極端な気分変調、親密な他者との人間関係上の齟齬、慢性的な不幸感が生じたり、問題からの回復に否定的、拒絶的になったりの結果をもたらす。

またホイットフィールドは共依存を「自己喪失の病気」であり、「じぶんを意味づけ満たしてくれるものが自分以外のどこか周囲にあると信じ求め続ける嗜癖的な傾向である」とも述べている。

共依存問題の決定的な拡大展開

シェフは物質嗜癖(アルコール・ドラッグ・ニコチン・カフェイン・食物等)とプロセス嗜癖(お金を貯めること・ギャンブル・セックス・仕事・宗教・心配等)からなる第二次的嗜癖の根底にあってこれら各種に共通の特徴を与え結びつけるものとして、第一次嗜癖とも呼ばれる人間関係嗜癖、すなわり共依存が置かれている、としている。

 この嗜癖システムに生きている限り、私たちは共依存的にならざるをえず、自己責任とコントロールを混同させられ、自らをコントロールできないならば他者をコントロールしようとするコントロール幻想を身に付けされられる。

シェフのいう共依存の特徴としては「自分を価値の低いものと感じ、自分が他者にとってなくてはならない者であろうと」努力し、自己犠牲を好む「キリスト教の殉教者のような苦難者」であり、他者を優先する「従者」であり、自らを害することに無頓着」で「消化性潰瘍や高血圧、腸炎、背痛やリューマチ性関節炎を患う者が多く、癌に罹る率も高率」で、その子どもたちは「アレルギーや皮膚炎、喘息、夜尿症」「無気力」「事故などの自己破壊蛍光」があるという。

 そしてイネーブリングに関連して次のようにも表現しており、

 「共依存者には世話を焼くことと気遣うことの違いが分かっておらず、長い間他人の世話を焼いてきたが為に(そして相手の依存を強めさせておいて)、彼らは怒りっぽく、恨みがましくなり、疲れ果てている。その結果、今まで世話を焼いていた相手を無視するようになりますが、今度はその相手からもっと自分を世話するように要求されることで、共依存者はその相手を黙らせるためだけに面倒をみる役に戻っていく」

 どんなに自己犠牲を払っても、「自分が他者にとってなくてはならない者」になろうと努めるのは、アルコール依存症の妻にだけ認められることではなく、現代の嗜癖システムに生きている限り、それは私たちの問題でもあるというのがシェフの一貫した骨太な主張である。一方で、具体的な個人レベルであろうと、全体的な嗜癖システムレベルであろうと、嗜癖からの回復はまず、他者へのケアや関心を自らの嗜癖=強迫的な病気の問題として認め、その問題をコントロールすることには無力であること、つまりコントロール幻想の放棄を受け入れ、この病的状態から脱出し新たな自分を生きねばならないとしている。

共依存論議の新局面:フェミニズムからの共依存論批判

ホワイトとエプストンのによるとシェフに代表されるような立場と見解は、いつの間にか共依存論議の世界における、いわば支配的物語(dominant story:我々の経験を言語化し秩序立てるにあたって、通常我々を導き、ある特定の方に当てはめようとする社会的通念のような一般的物語)とある。

 

 

 

 

読書記録(2010年11月記)

眼の誕生 アンドリュー・パーカー / 渡辺政隆 今西康子 訳

 

生物の分類法

生物は上から 

界、門、亜門、綱、目、亜目、科、属、種、というように階層的に分類がなされている。

収斂現象ならびに種の分類について

収斂現象とは異なる動物門のあいだで対応する器官がよく似た基本構造から独立して進化し、同じ機能を持つようになる現象をいう(一部省略)ある動物門がどの動物門に分類されるかは外部形態ではなく体内の体制で決まる

実際、動物の分類の決め手となるのは内部体制である。なぜ生物を外部形態で分類しないのかは以下の理由がある。

まず、外部形態とは体の外装の素材、色、形状のことを示している。それらは内部体制にくらべ生息環境と密接な関係を持っている。そうした環境要因としては温度・光などの物理的要因、同じ環境に生息する他の生物などの生物的要因とがある。

動物の外部形態は特に、その種に特異的な生息環境に適応していなければならないが、体内の体制によって大まかな制約を受けている。また、外部形態の形成を支配する遺伝子は体内の体制を支配する遺伝子よりも少ないうえ、そうした少数の遺伝子が、種の違いを超えて同じ構造の形成を指令するコードを突然変異によって獲得する確率は存外に大きい、というのが理由である。

外部形態の突然変異は保持され、蓄積され得る(個々の中間段階も全て、その持ち主にとって何らかの利益をもたらす場合にのみ保持され、蓄積される)のに対し、内部体制の変更が中間段階を経るということはありえない。

体内の体制を段階的に構築することはできないため、体内の体制の収斂進化は起きない。

したがって異なる種の違いを明確に見極めることができるのである。

淘汰圧について

動物の多様性は永続的な分岐プロセスである進化の結果である。

物理的環境・生物的環境は絶えず変化しているため、したがって生物種も、最適に近いデザインを維持するために絶えず変化している。

つまり、環境の変化はそこに生息する動物に変化を強いる圧力だとも言えるのである。この圧力を淘汰圧という。                                                                 

生物は動物門の枠内で新しい種を生み出していく。

生命の進化の歴史

39億年前~30億年ほど前

原始のブラックスモーカーから噴出した不安定な化学物質の混合物が海水と反応し、やがて生体を構築するもととなったアミノ酸その他の有機分子の無機的な構造体を生みだすに至った、これが原初の生命と呼ばれている

やがて、太陽光のエネルギーから硫化水素を水素の供給源として有機物を得る光合成細菌が登場することとなった

また、水を水素の供給源とするシアノバクテリアが登場した。

シアノバクテリアによって排出された酸素が地球全体を覆い動物組織にとって有害な紫外線を遮るオゾン層の形成に至る。

12億年前

酸素の供給により高度な構造をもった生物の生息が可能となり細胞核をもった生物が誕生した。(原生生物の出現)

それはやがて細胞集合体を形成することとなる。

10億年前

コロニ―を形成する細胞間に分業が成立するようになった(海綿動物の出現)

そして

三種類の主要な組織層を持つ体制の出現(扁形動物の出現)

三種類の組織層を持ちさらに開放血管系を備えた体制の出現

三種類の組織層のほかに血管、消化管が収められた体腔を持つ体制の出現

へと続いていく

また10億年前から6億6000万年前までには各動物門の内部体制がすべて出そろったとされている。

6億年~5億年ほど前(重複を避けるため、ここでは簡略に述べておく)

眼をもった生物の出現

現生する全ての動物門が、体を覆う硬い殻を突如として獲得した

動物門について

現存しない動物門を含め38種類存在する。

しかし5億4400万年前の時点では外部形態の特徴からすると(これは個々の動物門の外部形態は、異なる動物門のメンバーによく似た形態が現れることもあるがそれぞれ特有の変異幅に収まっているからである。特に古生生物では化石から内部体制を読み取ることは困難なことなので為された特別措置ではないかと私は考えている)3つの動物門しか存在していなかった。

ダーウィンの時代以降、進化理論には大変革が起こった。

これまでは過去5億4400万年間に動物門の数は3つから38へと少しずつ増加してきたという考えが主流であった。

しかし、今では生命の歴史は長期に渡る漸進的な進化ないし完全な足踏み状態の期間が大半を占めていて、そしてそうした停滞期は突如として起こる「大進化」によって断続的に破られてきたという「断続平衡説」が新たに唱えられるようになってきた。

捕食者の目・被食者の目

一般的に生態系の頂点に位置する捕食者の目は立体視ができるように眼は顔の頭部前面にあるのに対し、生態系の下位に位置する被食者の目は視野を広くするために頭部側面にある。

また、水中ではさらに水平方向だけでなく、上方・下方にも注意を払わなくてはならないので食物連鎖の真ん中あたりに位置する甲殻類は柄の先に眼をつけることで体を動かすことなくあたりを見渡すことができる。

このように、眼の位置関係が分かればある程度はその古生生物が生態系でどのような位置を占めていたのか推測可能である

光スイッチ説

視覚が刺激となって生物の外部形態の大幅な変化が促されたいという説

視覚を持たなかったカンブリア紀以前の生物にとっては光が動物の行動システムに影響を及ぼす重要な刺激とはならなかったため生物の進化は漸進的に起こっていったと作者は推測している。

また、作者はカンブリア紀の爆発を適応までの混乱という言葉で示している。

感想など

歴史的瞬間を目の当たりにすることが出来るのはそれが「今」起こっていることだからである。化石によって明かされるのは断続的な事実であるということを忘れてはいけない。進化というものが漸進的な変化であるにせよ突発的な変化であるにせよ進化が「いつ」「どこで」「どのように」起こったかを精密に推定することはもはや不可能なのではないのかと思っている。たとえどれだけ有益な化石標本が集まろうともである。

(およそ○○億年前~○○億年前という表現を使わざるを得ないという意味において)科学技術の発達によって古代の生物がその時どのような形態をしていて、またどのような生活様式をもっていたかがかなり信頼のおけるレベルにまでなってきたのは驚嘆すべき事実であるとは思っている。しかし忘れてはいけないことがある。それは化石が生物のありのままの姿ではないということである。

作者が述べていたように化石で保存されるのはあくまでも物理的構造であり、ある程度の年月が経ってしまえばDNAが保存されている可能性はまずないと言っていいように思える。また、作者はDNAが何百万年以上も破壊されずにいることはない。

これが、現在の統一見解である。と述べていながらも ゲノムに命を吹き込む方法、ティラノサウルス・レックスをよみがえらせる方法がないわけでもない。とも記している。しかし、具体的な言及を避けていることからもかなり眉唾ものに近いのではないのかと私は勝手に推測している。化石にとって重要なのはDNAなどの遺伝情報ではなく物理的な情報がどのくらい詳細に残されているかということなのであるとも作者は述べていた。また、私はジュラシックパークのように恐竜が現代に復活するという時代が到来するのを待ちわびている一方で実際復活した姿を目の当たりにすると興ざめしてしまうような気がしている。それはトカゲやワニにかっこ良さを見出せないことに原因があるかもしれないが、とにかくそう思ってしまうのである。

本の中の光がもつ力を、あらゆる現生生物の行動や進化と結びつけているのは眼である。眼が存在するからこそ、光がありとあらゆる動物にとっての刺激となっているのだ

について思ったことはたくさんあって、生物が生存競争を勝ち抜くにはまさに個々の生物の開発競争というか、とにかく他より秀でたものを備えたものが生き残るというルールのもと進化は起こり続けていたのであり、他の生物が影響を与え合ったからこそのものであると思っている。

あと、進化学はその特性上非常に個人の宗教観に左右されることもあり、ある種危険な学問というかむしろ宗教そのものではないのかと思ってしまうこともあって魅力的ではあるけれども手が出せない学問というイメージがある。

「卵が先か鶏が先か」という永遠に解決しそうにない問題について延々と調べていかなくてはならず、本当に進化学を専攻している学者には忍耐力の強さというか思いの強さという面で頭の下がる思いである。ある種ロマンチストとも言えるかもしれない。どうしても進化学は「趣味の学問」であるという印象を拭い去ることができないでいる。

 

三葉虫という生物は特定の形態をもったある一つの生物の名前だと思っていたが、実はそうではないことをはじめて知った為、本の中に硬い外骨格を持ち始めた三葉虫や最も初期の三葉虫という言葉が出てきて非常に混乱した。

また、自然界に回折格子を持つ生物が存在するということに非常に驚いた。

ただ、本の挿絵の中に回折格子を持つ古代生物の体色が再現されている絵があり、それを見たが、あまりにも鮮やか過ぎて確かに化石から回折格子を持っていたことは明らかなのであるのだけれども、その鮮やかな色では外敵から身を守ることもままならなくなるのでその鮮やかな色を持った古生生物たちの絵は限りなく真実を表している。と自信を持って言えるものでもないと思っている。

(筆者も物理的な構造から体色を再現することは出来ても、貝類のように、表面を目立たない色の外膜で覆われていた可能性は否定できないと述べている)

ただ、私が古生生物に対して思っていた

何の複雑な構造も持たない鈍重な生物群というイメージは払拭された

「統合失調症の一族」(「統合失調症のみかた、治療のすすめかた」を参照しながら)①

「ひょっとすると統合失調症に関して最も恐ろしいのは(中略)この疾患がひどく露骨に感情的なものになりうることかもしれない。症状は、何一つ抑え込んだりせず、何もかも増幅する。本人にとっては耳をつんざくような圧倒的なものであり、患者を愛する人にとってはぞっとするようなものであって、身近な人はみな理性的に処理することができない。家族にとって統合失調症は、何よりもまず、感覚的な経験であり、一家の土台が、病を抱えた家族の一員の方に向かって永久に傾いてしまったかのように感じられる。たとえ子供の一人が統合失調症になっただけでも、家族内のロジックにまつわるものがすべて変わってしまう。」

『P246家族療法

家族に伝えるべきことは多い。家族は患者に起きた不思議な現象につき当惑し、ショックを受けているものであり、精神障害への否定的なイメージに苦悩し、時にその重大性を否認して医学的でない解釈を試みようとし、自責的にもなる(中略)「親の悪い遺伝子が子に精神障害をもたらした」といった遺伝による影響は小さいことを伝えることは、親の心情を救うだろう。(中略)実際にはこの発症率は一般に比べると高いものの5~10%に過ぎず、そう高いわけではないことは、家族に安堵をもたらすはずだ。医学的な知識がなければ家族も自分なりに妄想に説得を試みたり叱ってみたり宗教活動に打ち込ませたり(中略)様々な努力をするだろう。(中略)実際、退院一年半後、対照群の再入院が35.7%(再発が64.3%)だったが、家族療法が行われた群の再入院は12.5%(再発が43.8%)であった(中略)家族療法は再発と再入院を減らすことに貢献するのだ。2年間の再発率が通常治療群では65%だったものが、家族1人に心理教育することで39%に減少し、家族複数人に心理教育することで23%に減少したといい(中略)複数の家族に家族教育をした方が、より大きな効果を得られる。』

『P230病名告知とアドヒアランス

病名告知

統合失調症と診断したことについて告知しておくことは必須である。古くは、統合失調症であることを伝えると悲観するのではないかと告知を躊躇したり、否定的な病名を告知することで、医師-患者関係を悪化させるのではないかと「神経過敏」「自律神神経失調症」などと実際とは異なる病名を伝えたり、「大切なのは病名ではなく状態だ」などと説明するばかりで病名告知を避けたりするのを見かけることもあった。そして、珍しくはなったが最近でもそのようにしている医師や、そのようにされてきた患者を見かけることがある。(一部略)統合失調症の告知状況についての多施設研究では、79.6%が告知されていたといい、告知するのが現代の常識である。』

 

「リンジーは(中略)主治医がきちんと診察してくれているかを確かめている。彼女は存命中の他の病んだ兄たちのためにも、同じことをする。」

統合失調症の患者の回想録により、妄信している患者の世界が露わになると「ひどく性的で、倒錯していて、かつ、強い刺激を起こさせるような」感覚を持っていることが分かる。これは、文字通り心が壊れてしまったのだろう、と強く思わずにはいられない。そして強い渇望状態と、神経の興奮が、衝動的な心の引き金となったとき、治療に繋がるような「転移」が起こらないのだと考えらえる。

フロイトユングの概念におけるリビドーの概念はさておくとして、遺伝的要因で補足する必要があるとしたときに、統合失調症が必ずしも性的倒錯によってもたらされるものではないということを示している。統合失調症は性的関心の喪失だけで説明することはできない。つまり、精神の病気は、性的関心を喪い、頭の中で形成された性に関する強い興味が、現実世界ではなく、妄想世界に向いているという、ある種のスティグマが働いているのではないのかと考えらえる。

「「あの人は誰にでも完璧を求めるのでした。」(中略)1950年代には、彼女のような母親に狙いを定めるようになっていった。アメリカの精神医学界でもとりわけ有力な思想家たちは全員、そうした女性に新しい専門用語を使っていた。」

統合失調症誘発性という言葉は、母親こそ統合失調症の一族たる理由として暗に示している。また、精神科病院が、患者に「適切な治療を施す」ということを建前として、様々な実験が行われている。環境的要因を母親に求めつつ、統合失調症の生物学的原因を優生学思想につなげ、それが精神病患者に不妊手術を勧め、やがてそれは日本に「輸入」されていったのだろう。そして、母親が、環境的要因を担っていると強調することで、ある種読者に「自分の母親にはそのようなところがないから、自分が精神疾患になることはない」という安心感を与えるために機能している。

つまりは、すべて母親のせいにされるから、「自分の子供にどこかおかしなところがあるようなら、医師には絶対告げてはならない」という心理的孤立状態に陥る。

一方でこの一族における、父親の役割はやや「権威ある父親」の姿とはかけ離れている。兄弟にとって適切であると思われる本を提示し、「調和」を旨とした。そのため、ネグレクトを示唆するような、描写というより、「自由にさせている」という印象を抱く。

依存と自立の精神構造

依存と自立の精神構ー「清明心」と「型」の深層心理   長山恵一

しがみつき依存について

しがみつきでは外面的な要求がいくら叶えられても、患者の内面には本質的な満足感が生まれず、要求が際限もなく繰り返される。相手が要求に応じないとき、患者は恨みのこもった攻撃性をあらわにする。しがみつきとその種の攻撃性は表裏一体を成し、相手を依存の泥沼へと引きずり込もうとする。

その対象は恋人であったり母親などのごく近しい人に向けられ、相手をまさに振り回し、思い通りに動かそうとする。

しがみつきにみられる特徴として

この人さえいればなんとかなる。なんとかしてくれるだろう。といった幻想的な思い込みが認められること

バリントによると、「対象の過大評価」と呼ぶ

第二の特徴として、しがみつきには相手に対する不信や憎悪が内在しており、状況によってそれがいつでも恨みのこもった攻撃性に転化することが挙げられる。

「不信」と「しがみつき」「振り回し」の不可分な関係は病的依存のアンビバレンツでもあり、土居によると、「ナルチシズム的甘え」が必然的に恨みや憎しみを伴った愛憎一如の現象だと指摘し、そこでは依頼心のみ強くて信頼心に乏しいとも述べている。

第三の特徴として、患者はしがみつく相手に異様に敏感になる点が挙げられる。しがみついたり、恨んで攻撃する患者は一見相手のことを何も考えずにそうしているように見える。しかし事実はまったく逆で、相手の心の動きを敏感に察知したうえでしがみついている。

バリントはこれを、「テレパシー」あるいは「ゆゆしい才能」と表現し、土居は「甘え理論」で、この種の敏感さを日本語の「気がね」で表現しており、それが「甘えたい心=依頼心」の抑圧で生じると説明しているが、筆者はバリントのいう病的依存に付随した現象だと解している。

第四の特徴として、相手から何かしてもらっても満足できず、かえって前より欲求が強くなるという悪循環が挙げられる。

以上のような奇妙な悪循環や対人過敏性が病的依存の特徴だが、その底には「自分がない」とでもいうような主体の心的「基盤」の脆弱さが潜んでいる。

基盤とは、足場とは

我々があるものを自分の「基盤」とみなすとき、それが不動で破壊不能であることが前提である。地上何メートルかの高さにいても、主観的体験としては私たちは高さを感じずに活動できるのは、思い切り床を踏みつけても床は壊れないというアプリオリな信頼によるものである。この種の信頼や安定感は言葉で自覚されるものというより、身体感覚に近い形で漠然と感じられ、我々の意識活動はその基盤に支えられることで具体的な方向へと向かうことができる。

しがみつきにおいては、患者は相手を意のままに動かそうとしつつ、同時に心のなかでは動揺しない基盤を求めている。もし相手が患者の要求に無抵抗に従い、振り回されれば、表面的な要求は叶えられるが患者が心の奥で求めている「基盤」という属性は逆に失われる。この結果、相手が要求に無抵抗に従えば従うほど、患者は内面の不足感を募らせるという奇妙なことが起きてくる。また、「動揺しない基盤」と「意のままに動くこと」が同時に成就されることはない。これが、依存の悪循環の産み出す源泉であるといえる。

しがみつき依存と罪悪感

精神分析における罪悪感における日本人の心性

西園によると「罪の意識」は大きく二つに類別することができ、

第一の罪意識はフロイトが明らかにした超自我不安にかかわる「フロイト型の罪意識」であり、この型の罪意識は父・母・子をめぐるエディプス・コンプレックスに由来し、超自我からの懲罰にかかわっている。第二の罪意識は「ナルチシズム型罪意識」あるいは「母親依存型の罪意識」であり、母子関係を軸とし、他者の保護に関連するナルチシズムにかかわり、自己の存在の確証をめぐっての罪意識となっている。

クラインによると、「母親依存型の罪意識」は「抑鬱的態勢」において、幼児は「良い母」と「悪い母」が同じ一つの全体的対象であることを認知するようになり、自分が愛し全面的に依存している同じその対象である母に破壊的な衝動を向けるという両価性を経験する。躁的でない償いは防衛とは正反対な性質をもち、自我の成長や現実適応に大切な働きをし、母子分離や全体的対象認知を促す意味合いをもつ。

 

 

トラウマの表象と主体

トラウマの表象と主体 森茂起編

本文の外傷性記憶とその治療ー一つの方針 中井久夫

外傷的記憶の特性

1、静止的あるいはほぼ静止的映像で一般に異様に鮮明であるが、

2、その文脈(前後関係、時間的・空間的定位)が不明であり、

3、鮮明性と対照的に言語化が困難であり、

4、時間に抵抗して変造加工がなく(生涯を通じてほとんど変わらず)、

5、夢においても加工(置き換え、象徴化なく)されずそのまま出現し(通常の夢が睡眠のレム期に出現するのに対して外傷夢はノンレム期であるという研究がある)、

6、反復出現し、

7、感覚性が強い。状況の記述や解釈を伴う場合は事後的、特に周囲、写真、日記、新聞記事などの外的示唆によることが多い。

8、視覚映像が多いが、1995年1月の払暁震災のように振動感覚の場合もあり、全感覚が記憶に参与しうる。聴覚の場合、微妙な鑑別が必要となる。

9、何年経っても何かのきっかけによって(よらないこともある)昨日のごとく再現され、かつしばしば当時の情動が鮮明に現れる。これを身的外傷と比較すれば、ヴァレリーのいうとおりになる。体の傷は癒えても心の傷は癒えないということである。これは脳の一つの特性であろう。

10、過去の追想につきものの「時間の霞」がかかるどころかしばしば原記憶よりも映像の鮮明化や随伴情動の増強が見られる。

それに対し成人型記憶を

1、サルトルがいうように眼前の映像に比して絶対的貧困性があり、特に細部が曖昧であり、

2、常に文脈の中にあって、したがって、生の連続隊の一部として意識され、

3、容易に言語化され、むしろ言語化されては「自己史」連続体の一部としてくりこまれ、その副次的な、一種の「挿絵」という第二義的地位に座を見いだし、

4、語りとして「自己史」の一部に統合された結果、生の進行とともにその意義、その内容の強調点が変化し、さらに一般に自分の都合のよいように、あるいは自己を美化するように変造・加工され、

5、特にこの変造・加工は(この場合はレム期においてみられる)夢に著しく、置き換えや象徴化されるのが普通である。このことは外傷夢の無加工性と対照的である。

6、主題や場面やストーリーが反復再現するが、全くの再現ではない。

7、感覚性の強さは言語化された記憶を経由したもので、一般に時間とともにうすらぎ、質的にも変動を起こして、ある特異な情動すなわち「なつかしさ」を伴う。否定的内容の事件に対しても「けっきょく済んでほっとした」「よくやってこれたものだ」という肯定的結論の情動を伴うがこれもまた時間とともに現場感と切実さを失ってゆく。

8、当初は個別感覚に基礎を置くが、次第に一般感覚的、さらに雰囲気的なものが前面にでてくる。

9、昨日のごとく再現されることが絶対にないとはいわないが、それはきわめて稀であり、了解しうる状況においてである。たとえば若い日の恋人との予期しない再会。しかし、その場合でも特異な情動「ほろにがい甘さ」が加わっており、細部はしばしば状況に都合のよいように変造されている。

10、大きな特徴は、先に挙げた「連続性」とともに「時間の霞」である。事件との時間的距離の感覚があり、それが記憶をひとつの全体の中におさめている。時間性が成人型記憶の全体を覆っていて、外傷性記憶の時間停止と対照的である。

外傷性記憶はそこだけ時間が停止し、記憶の総体の中に収まらず「腐骨化」がなされている。

成人の記憶は、現在との(主観的)時間的距離のよって一体性を帯び、統合されている。

だとするなら、過去の自分の行動に対する後悔であったりが同じだけの重さを持って不意に甦ってくる自分の状態って何なんだろうな?と思う

肯定的情動を伴うのが「正しい」精神状態なら、今の私の精神状態はひどく「不健全」なんだろうなと思ったりもする。記憶に対する意見の相違はさておき、現在からみた過去の自己像は、それが現在であった時の自己像ではありえない。つねに現在との関連によって、その重要性も文脈も内容さえも変化をこうむっているという点については同意する。

外傷体験はそれ自体が屈辱的体験であり、恥の意識を伴い、抑鬱感情にもつながり、心気症にもつながる。また、外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことである。

という箇所はしばしば考えることで、しかしながら、時に記憶の間隙や喪失を伴いながらも連続性を失わない「自己」とは何なのだろうか?と思わずにはいられない。

映画における記憶とトラウマの表象 加藤幹郎

記憶の喚起は直接的で明確なイコンとしての類似よりも、むしろどこがどう似ているとはすぐさま表現できないような、間接的な類似の方が効果的なこともある。

自己の起源の記憶がある者が、どうしてその不可能な期限を唯一遡及的に起源たらしめる死をみずから選びとる必要があったのでしょうか。むしろ自死する人間は自分の人生を根拠づけるであろう起源の喪失感にこそ悩んでいるのではないでしょうか。

ひとは映画の観客であるかぎり、いかなる心的外傷を負う心配もなく、他者のトラウマをみずからの欲望の拡大充足の延長線上にみることができる。

一般に映画の表象は、それが荒唐無稽なフィクションであろうと峻厳たるノンフィクションであろうと、「歴史のなかの人間」をえがくことに汲々とし、かつそれを当然のこととして受け容れ、そうした前提にほとんど何の疑いもいれてきませんでした。

(中略)人間は歴史の教訓からは何も学んでこなかったという使い古された評言がありますが、それは歴史が「歴史のなかの人間」を記述するかぎり、人間にとって教訓となることはできないという意味です。もし歴史が「歴史のなかの人間」を記述することに終始するのではなく、「人間のなかの歴史」を精査することができれば、そのときはじめて歴史の教訓は人間のものとなることができるだろうというのが、ここでの仮説です。

「歴史のなかの人間」たりうるとき、そのときの歴史とはあくまでも遡及的、事後的な時間構成であり、その意味で第三者にとって代替可能かつ理解可能な時間ではあっても、ほかならぬ当事者にとって生きられた紛れもない「現実」の時間の再現ではありません。このことは物語小説の一般的な人称時制が三人称過去形を取ることを思い起こせば、理解しやすいかもしれません。すべてが終わった時点(過去形)から、そして自己を離れたポジション(三人称)からでないと、まがりなりにも客観的たることを要請される歴史=物語を記述することは不可能です。いまだ「終わり」をもたない歴史=物語というものはありえませんし、自己が自己について首尾一貫した歴史=物語を語ることは、いまだ自己が首と尾をもちえないまま蠕動している以上、できない相談です。歴史と物語は共通して「はじまり」と「終わり」があり、認識的切断によって時間の流れに恣意的な切れ目がいれられ、そのことによってはじめて「過去の出来事」を「終わり」という「語りの現在」にむかって目的論的に体系化し記述することができます。(中略)終息していない歴史=物語を語ることは、過去が現在を侵食している「いま」を記述することであり、そのとき歴史は現在と過去を峻別できない「人間のなかの歴史」として立ち現れてくることでしょう。

つまり客観的知ではなく、当事者にのみ共有される、「共有しがたい不可解な知」において歴史ははじめて物語であることをやめて真実の現実としての意味を持ちはじめるとある。VRの登場により、娯楽がより「現実味」を帯びていくなかで、どのように「共有しがたい不可解な知」を提供できるかが、鍵となっていくのではと思うなどした。

物語とトラウマ 久松睦典

 フロイトは「事後性」という観点から、ある出来事がトラウマとなるのは後になってその外傷的な意味が発見されるからだと論じた。トラウマと言う原因があってそれが現在の症状を生み出したという因果を逆にした発想である。

事後性とは、現在の語りが「過去」や聴き手との関係の中でいかに生成していくかというプロセスと関連している。もちろん、現在の視点によって恣意的に過去が変化するわけではない。過去は語りの主体にとってどうしようもない他者として立ち現れてくる。過去、あるいは記憶という問題は、物語性と本質的に緊張をはらんだ関係をもっている。だからこそそれは、心理療法における物語の生成の動きを見るために重要な視点を与えてくれると思われる。

 トラウマのもつ過去の直接的な現在化という性質と、過去は常に現在から解釈された物語論の視点はひとつのパラドクスをはらんでいる。トラウマの直解的(literal)な性質は、その理論においてもトラウマを文字通りに扱うことにつながり、それが事実とファンタジー、外界と内界、加害者と被害者といった分裂をもたらしている。

(中略)トラウマは人間的な意味の領域に亀裂を生み、根源的な無根拠さ、無意味さをあきらかにするがゆえに、かえってその空白の周りに意味を強く引き寄せる。

非物語的なトラウマの記憶の物語への変容という課題は、トラウマに関する心理療法の多くで強調されている。しかし物語化への動きは、無意味なものから意味あるものという一方通行的なものではなく、実際には象徴の彼岸としての「モノ」の領域と「語り」の領域の相互作用と、それらの中間領域の形成として捉えることができるのではないだろうか。

物語はたんに語り手や登場人物についての客観的な知識をもたらすのではなく、「主観を通じて」体験されるような性質をもっている。物語が人生に意味を与え、体験を形づくるのは、それが出来事を描写する外向的な行動であると同時に、自己反省と自己理解を可能にする内省的な行為でもあるからだ。物語は、ある個人の置かれている状況に意味を与え、文脈を明かにし、展望をもたらす。

ユングフロイトであったり心理療法についての知識が乏しいので気になった部分の抜粋だけ

 

共依存ー自己喪失の病

『自己喪失ー自己喪失の病』吉岡隆編

もともと共依存は、問題を起こすことで相手を支配しようとする人と、その人の世話をすることで相手を支配しようとする人との二者関係のことである。

共依存という言葉は、あるときは二者関係のことを指す表現として、またある時には個人の病理を表す言葉として使われるがために理解しづらくなっているとあり、そして、「嗜癖臨床で最も巧妙で不可解で強力なもの」とも表現され、その根本にはどこに自分と相手の境界線があるのかがわからないがために自分の行為が愛だと信じ込み、愛という名目で相手の自尊心を奪い、自立するエネルギーを奪い取り、回復する力を打ち砕いていることにも気づかない、とある。

共依存に苦しむ人の手記で特に印象に残った箇所が「本当に恐いのは、相手への支配を自覚して行動するときより、自覚せず無意識に起こす支配行動だと思う。良かれと思ってやってきたなかに多くのこういうコントロール欲求に満ちた行動があるのだろう。無自覚だから自分では自分では気づけない病理である」というところであったり、世話をすることで「世話をする人」「世話をされる人」という関係が生じ、自分が世話をする人になることで自分が抱える問題から目を逸らしつつ、優越感を得ることが出来るといったところなどである。

依存先の相手に何をされたか、までは分かるのだが、私は何をしたか、どういう問題が生じたかが「ぼやかされて」書かれているものが多くその点においても実態の掴みにくいものであるという実感を得るに至った。

また、ある共依存に苦しむ患者の手記において「母性の業」とあり、またある患者においては、親密性を求めてすり寄り、はまり合う関係を求める関係嗜癖的なところがあるところや、清算できずに抱えてきた母親への怒りの感情があったことを告白している。

ある人は役割としての母に囚われ、またある人は母に対する満たされない思いを抱えているという風に自分はどうありたいか、どうして欲しかったかと自問するうちに、他者に対してもこうしてあげれば喜ぶだろう、こうすれば相手が自分の思うとおりに動くだろうという経験を蓄積していくうちに、依存症となって表出してくるのだろうかと思うなどした。

女性の手記が多いため、母親であったり母性という言葉を用いたが、メカニズムとしては信田さよ子氏が本文中で述べているように、これまでの自分の人生を否定されるような衝撃が共依存の発生の大きな契機であり、その衝撃によって自己否定感、自己喪失、生き方の否定が生まれ、それによって他者をコントロールすることへの強烈な欲求が芽生えることによって生じる、というのが本質である。共依存と比較的近い概念として挙げられる、対象者を支配・コントロールする管理の一方法であるとされるパターナリズムは「父権主義」と訳されるように必ずしも性別によって支配する人、される人の役割が固定化されるものでもないということも言及しておきたい。

また、共依存の人たちが自己言及よりも他者に関心が及びがちであり、そこに嗜癖しがちであるというのも納得のいく言及であった。

共依存とは、親子関係だけでなく、学校現場、医療・福祉の現場でもみられる事象であることを考慮すると比較的身近に存在する陥穽でもあると言えるのではないだろうか。

共依存という枠組みからは少し外れるが、虐待的な人間関係の要因として

Justice(1990)による「誤った信念」の存在が指摘されているのでこれもメモ書き程度ではあるが、記しておきたいと思う。

「例えば、子どもが泣いたり、いたずらをしたり、自分の思いどおりに動いてくれないことは、子どもが自分のことを愛していないこと、自分が悪い親であることを意味する」「私が何を必要としているのか、何をして欲しいのかを自分の子どもならわかって当然だ」といったものであり、こうした信念がまた、子どもに対する暴力の誘因になっている、ということである。