不協和音

ワイの読書記録

共依存ー自己喪失の病

『自己喪失ー自己喪失の病』吉岡隆編

もともと共依存は、問題を起こすことで相手を支配しようとする人と、その人の世話をすることで相手を支配しようとする人との二者関係のことである。

共依存という言葉は、あるときは二者関係のことを指す表現として、またある時には個人の病理を表す言葉として使われるがために理解しづらくなっているとあり、そして、「嗜癖臨床で最も巧妙で不可解で強力なもの」とも表現され、その根本にはどこに自分と相手の境界線があるのかがわからないがために自分の行為が愛だと信じ込み、愛という名目で相手の自尊心を奪い、自立するエネルギーを奪い取り、回復する力を打ち砕いていることにも気づかない、とある。

共依存に苦しむ人の手記で特に印象に残った箇所が「本当に恐いのは、相手への支配を自覚して行動するときより、自覚せず無意識に起こす支配行動だと思う。良かれと思ってやってきたなかに多くのこういうコントロール欲求に満ちた行動があるのだろう。無自覚だから自分では自分では気づけない病理である」というところであったり、世話をすることで「世話をする人」「世話をされる人」という関係が生じ、自分が世話をする人になることで自分が抱える問題から目を逸らしつつ、優越感を得ることが出来るといったところなどである。

依存先の相手に何をされたか、までは分かるのだが、私は何をしたか、どういう問題が生じたかが「ぼやかされて」書かれているものが多くその点においても実態の掴みにくいものであるという実感を得るに至った。

また、ある共依存に苦しむ患者の手記において「母性の業」とあり、またある患者においては、親密性を求めてすり寄り、はまり合う関係を求める関係嗜癖的なところがあるところや、清算できずに抱えてきた母親への怒りの感情があったことを告白している。

ある人は役割としての母に囚われ、またある人は母に対する満たされない思いを抱えているという風に自分はどうありたいか、どうして欲しかったかと自問するうちに、他者に対してもこうしてあげれば喜ぶだろう、こうすれば相手が自分の思うとおりに動くだろうという経験を蓄積していくうちに、依存症となって表出してくるのだろうかと思うなどした。

女性の手記が多いため、母親であったり母性という言葉を用いたが、メカニズムとしては信田さよ子氏が本文中で述べているように、これまでの自分の人生を否定されるような衝撃が共依存の発生の大きな契機であり、その衝撃によって自己否定感、自己喪失、生き方の否定が生まれ、それによって他者をコントロールすることへの強烈な欲求が芽生えることによって生じる、というのが本質である。共依存と比較的近い概念として挙げられる、対象者を支配・コントロールする管理の一方法であるとされるパターナリズムは「父権主義」と訳されるように必ずしも性別によって支配する人、される人の役割が固定化されるものでもないということも言及しておきたい。

また、共依存の人たちが自己言及よりも他者に関心が及びがちであり、そこに嗜癖しがちであるというのも納得のいく言及であった。

共依存とは、親子関係だけでなく、学校現場、医療・福祉の現場でもみられる事象であることを考慮すると比較的身近に存在する陥穽でもあると言えるのではないだろうか。

共依存という枠組みからは少し外れるが、虐待的な人間関係の要因として

Justice(1990)による「誤った信念」の存在が指摘されているのでこれもメモ書き程度ではあるが、記しておきたいと思う。

「例えば、子どもが泣いたり、いたずらをしたり、自分の思いどおりに動いてくれないことは、子どもが自分のことを愛していないこと、自分が悪い親であることを意味する」「私が何を必要としているのか、何をして欲しいのかを自分の子どもならわかって当然だ」といったものであり、こうした信念がまた、子どもに対する暴力の誘因になっている、ということである。